宴会コンパニオンなら覚えておきたい曲【東京ナイトクラブ】

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60才以上のおじさまがいる席では、歌いたい一曲ですね。デュエット曲になります。

曲名:東京ナイトクラブ

歌手:フランク永井 松尾和子

フランク永井・松尾和子  東京ナイト・クラブ

 

フランク永井さんつきまして

自殺未遂事件

1985年(昭和60年)10月21日(当時53歳)、自宅の階段でロープを括り首吊り自殺を図る。その数分後に永井夫人によって発見され、発見が早かったこともあり、辛うじて一命は取り止めた。だが脳に障害が残り、会話が不自由となったほか、記憶が乏しくなるなどの後遺症を患ってしまう。その自殺を図った原因は、当初NHK紅白歌合戦の不選出による今後の歌手活動を悲観してのことかと思われたが、その数日後に永井の愛人との間の子供の認知と養育費の請求を苦にしたものと報道された。しかし遺書等はなく、また自殺未遂前後の記憶を喪失していたため、永井本人がこのことについて語ることは生涯無かった。それにより、永井の自殺未遂事件の真相は不明のまま終わっている

76歳で死去

2008年(平成20年)10月27日、東京の自宅で肺炎のため死去。76歳だった。一般への情報公開前に、葬儀・告別式が密葬で行われた。喪主は実姉が務めた。

戒名は「永徳院道鑑慈調清居士(えいとくいんどうかんじちょうせいこじ)」。身内だけで葬儀を行ったため、古くからフランク永井を知る芸能音楽関係者が2009年2月27日、『フランク永井を偲ぶ会』を開催した

フランク永井展示室がある大崎市松山ふるさと歴史館

2009年3月2日に出身地である宮城県大崎市の「特別功績者」第1号に選ばれる。特別功績賞は市の名誉市民に準じた業績のあった故人が対象で、2月に創設された。また2009年10月27日には、同市の大崎市松山ふるさと歴史館において、トロフィーやレコード、愛用品などを展示するフランク永井展示室がオープンした。2009年3月16日には大崎市松山体育館で「第1回フランク永井歌コンクール」が開催され、以後、毎年3月に開催されるようになった。

ウキペディアより抜粋

松尾和子さんにつきまして

略歴

東京市蒲田区(現東京都大田区蒲田)生まれ、箱根育ち。

戦後、ジャズに惹かれたことと自身及び家族の生活のために歌手となり、レイモンド・コンデのバンド、ゲイ・セプテットの専属歌手のひとりとなる。進駐軍のキャンプやナイトクラブなどで歌ううち、徐々に人気が上がっていき、やがて、赤坂のクラブ・リキ(力道山が経営していた)の専属歌手となり歌っていたときに、フランク永井に認められスカウト。吉田正に紹介されて、ビクターに入社。

1959年には「グッド・ナイト/東京ナイト・クラブ」でレコードデビュー。「グッド~」は和田弘とマヒナスターズ、「東京~」はフランク永井との共唱。当時はベテラン/人気歌手でも片面は他の歌手である場合が多く、ビクター及び吉田正の期待のほどが窺える。第2弾として発売した「誰よりも君を愛す」(マヒナとの共唱)が大ヒットし、それと共に「グッド~」もつられる形でヒット、「誰よりも~」は第2回レコード大賞を受賞、「東京ナイト~」はその後長らくデュエットソングの定番として根強い人気を博し、松尾の名は一躍スターダムへとのし上がり、後にムード歌謡の女王と称されるようになった。

1960年にはソロで吹き込んだ「再会」がヒット。その後も「夜がわるい」「お座敷小唄」「再会の朝」「銀座ブルース」とコンスタントにヒットを出している。

私生活では歌手デビュー前の1958年に結婚、1963年には長男を授かるが、1966年に夫と離婚した辺りから人気が下降していく。

1971年ごろ、大学生を中心に熟女ブームのようなものが巻き起こり、五月みどりらと共に人気が再燃。この時期以降タレントしての活動が活発化し、1980年代には「ライオンのいただきます」(フジテレビ)、「午後は○○おもいッきりテレビ」(日本テレビ)のバラエティー/情報番組のコメンテーターとして大活躍し、人気を博していた。また女優としても「池中玄太80キロ」(日本テレビ)などに出演している。

1991年には息子が覚せい剤取締法違反で逮捕されたり、折からブティック経営にも失敗し、負債は8億円ともいわれた。このことに思い悩み、松尾は睡眠薬を多量服用し、自殺未遂を起こすまでに追い込まれている。

松尾の息子がまだ服役中だった1992年9月25日、自宅の階段から転落して頭部を強打する。それでも転落直後には松尾本人は家族に「なんでもない、大丈夫」と無事であることを主張していたが、数時間後に容態が急変し間もなくして死去。57歳没。

死因は脳圧迫死であった。あまりにも突然の事故であり、前述の自殺未遂騒動などから、その急死は大きな波紋を呼んだ。この時階段に滑り止めが付いておらず、滑り止めがあれば転落事故は防げたとも話されていた。

松尾没後、「(松尾に)歌って欲しい曲がいっぱいあったし、書けと言われれば今も書ける。でも肝心の歌う人がいない。せめてフランク(永井)が健在なら…」というのが、晩年の吉田正の口癖だった。

没後20年以上経った現在も過去の作品が多数CD化されている。

ウキペディアより抜粋

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